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![]() 1503年に生まれ,1573年に死す。 村上義清は清和源氏流れをくむ、北信濃最大勢力の国人でした。
1541年に武田信玄の父親の信虎と同盟を組み、真田幸隆を追い出して、佐久、小県、更
級、植科、高井、水内郡を支配しました。
その後,真田幸隆が、昔の領土を、返してもらおうと武田晴信(信玄)に近づき、武田家とは、
当主が、武田晴信(信玄)に代が替わってから、対立しました。 1548年に上田原の戦が起きました。はじめ武田軍の方が優勢でしたが、義清軍は側面を攻め ました。武田の勢いは、1度崩れると村上の軍勢が背後に廻ろうとした。だが、武田の軍勢も 山ろくに陣を張っていた村上義清にせまったが、山を背にし、背後から攻められることが無か ったので、武田群の地形が不利な状況であった。段々崩れていく武田の軍勢に、村上の軍勢 の主力が、武田郡の中央に突撃し、晴信めがけて襲い掛かった。 そのため晴信は負傷し、晴信は本陣を左に移したので右翼の陣は孤立し討ち取られた。 だが、武田の軍勢がよし清の本陣に向かって突撃してきたので、義清は北に退いた。 この戦いで、義清は晴信に始めて敗戦を味合わせたばかりか、武田の有力な賞であった板垣 信方、甘利虎泰、財満河内守、初鹿野伝右衛門などを討ち取った。
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